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日記・コラム・つぶやき

2013-03-08

TSUTAYAにゲーム新古品を売りに行ったら警察を呼ばれた人が見落としていること

なんていう大層なタイトルを付けてみたけれど特に内容はない。

ネタ元はこちら。
TSUTAYAにゲーム新古品を売りに行ったら警察を呼ばれた | sososo activity
あとこちらも読んでおくと吉。
なんでTSUTAYAにゲーム新古品を売りに行ったら警察を呼ばれたか - 田下広夢の記事にはできない。

 早い話が開封して持っていけば何事もなく終わった事例であるし、店側としては客とのコミュニケーションの失敗例でしかない。

 ただ少しだけ理解して欲しいのが、こういうお店にあるマニュアルや規則という物は我が身を守るために存在しているってこととそういう物に対して柔軟に対応すれば良いというのは俺のためにお前が危険にさらされろと言ってるようなものだってこと。ただの責任回避じゃないって? あったりまえじゃん、しなくてもいい冒険をして責任とらされる馬鹿がどこに居るのよ。もちろんこういう風に店頭で客と揉めるというのも一つのリスクな訳で、多分行き着く先は新古品の買い取り拒否が店頭で明確に表示されるようになるだろうけど。

2012-11-29

赤ちゃんという名の超音波兵器

 ネットで話題になってる例のアレは赤ちゃんの泣き声を不愉快に思うこととそれに対して接客業に従事したことがある人なら一度は体験したことがあるだろう「今ここでそんなこと私に言われてもお客様の不満はすぐに解消できませんしはっきり言って意味が無いことなんであなたのサンドバッグがわりに私を使うのは止めてくれませんか」系クレームをしたことをごっちゃにした批判を割と見掛けてなんだかなと思う。

 赤ちゃんや赤ちゃんを連れた両親という弱者に対して優しくあること、寛容であることというのは素敵なことだし、そうすることによって育児という大変な作業の負担を少しでも社会全体で肩代わりして両親の負担を減らすというのも私たち社会の目指す先でもあると思う。

 ではそのために優しさや寛容さを他人に強制することはできるのか。

 今回の件の問題点の一つは赤ちゃんの泣き声という音にある。音というのは公害の一つに騒音が含まれていたり、今までも音に関する問題が発端で悲惨な事件がいくつも起こっていることから分かるように、私たちの生活の中でも決して軽視できない要素である。その上どんな音が害と感じるのかについては個人差があり、個人でもその時の体調や精神状態・周囲の環境によって許容度が変化しやすい。

 そういうものに対して多数の人間が個人に向けてそれを許容できないのはおかしい、社会のために我慢しろ(この件で少子化を持ち出して批判するということは突き詰めればこういうことになる)と迫るのは異様な光景にしか見えない。優しさや寛容さというものは自発的なもので無ければ、他人を屈服させる為の理不尽な暴力にしかならないのだから。

 一方で今回の件で例の人物が赤ちゃんを連れた人間が飛行機に乗ることを否定したのも、自分が不快な思いをしないというためだけに他人に行動を強制させることであり、その場ではどうしようもないことをクレームしてみせたりする事も含めて理不尽な暴力だ。

 本来こういう話はどちらもなるたけ双方が不満や抑圧・強制力を感じないような妥協点を見いだし、行政や企業がシステムとして解決策を講じないといけないものだろう。

 そしてそういう話こそがネット上の議論というものが一番苦手としている行為でもある。現実的な解決策を実行する能力を基本的に持たないので議論の最終到達点がせいぜい相手を叩きのめす程度のものになり、そのための武器としての正しさだけが追究される。その結果正しさで相手を屈服させることができた側はそれだけで満足し、屈服させられた側には怨嗟の念が生まれ、問題はそのまま放置されるのだ。

 今回の件も結局の所いつも通りのその路線で終わりそうでなんだかなあと思うのだった。

2012-08-19

iPhoneからのテスト

これで何処でもブログが書けるようになるぞ!

2012-06-12

私が中指を突き立てている物

 覚え書き。

 ネット上でよく見かける悪いことした人間を追求して制裁しようという騒動。あれは相手が未成年飲酒や飲酒運転などの法(あるいは社会的な倫理観や道徳観)に反する行為を行ってる、ということが原動力であり、理論的・倫理的支えになっていて、それを追求する側は相対的な正義として、自分の行動を省みることもしないし、自分たちへの批判には悪いのはあいつらであって俺たちじゃないと責任を放棄する。そしてたいていの場合、悪いことをした奴に制裁を加えるのはその騒動に触発されて行動を起こさざるを得なかった第三者であり、あくまでも追求した側は制裁自体には関与してない=制裁によって引き起こされた事に関しては一切の責任を負わない、と言うことになる。

 私はここに人一人の人生とその周辺の人間の生活までを巻き込み大きな影響を与えうる行動が何の責任もなく、ゲーム感覚で娯楽的に消費されるということのおぞましさを感じる。ましてやそれが自分のテリトリーで起こったとなればだ。これが権利者同士のやりとりの中で発覚確定処理されたことならここまで腹を立てることもなかった。

2012-06-03

ネットに蔓延る私刑執行

 正義を掲げた人たちが誰かや何かをリンチする光景はネット上では珍しくないものになった。理由も対象も様々だ。共通しているのは私刑執行人が持つ倫理観・道徳観・正義感に反するものが悪とされ、何の手続きも経ず、集団の雰囲気に飲まれる形で容赦なく糾弾するところだ。

 この手の私刑執行においてもっとも重要なのがその私刑の正当性である。大抵の場合私刑執行者たちもその辺りはわきまえていて、社会通念や一般常識や様々な法律を振りかざして私刑の正当化を図っている。しかしあくまでもそれは私刑の発端となった「倫理観・道徳観・正義感」の正当化に過ぎない。

 この辺りは司法制度における逮捕→裁判→刑の執行というプロセスの正当性、というものを考えてみればいい。この一連のプロセスは予め定められた手続きに従って進行される。手続きからはみ出たものはそれ以上先に進めない。刑の執行という最終プロセスに辿り着くと言うことはそこまでの手続きを正当に経てきた、と言うことでもあり、そこに刑執行の正当性が生まれてくる。

 ネットで蔓延っている私刑執行にはそういった手続きがない。ある種気ままに自己の「倫理観・道徳観・正義感」を基に私刑を行うのだ。そこでは皆が警察官であり検事であり裁判官であり刑の執行人である。

 さてこれがどういうことか。多くの人が分かると思いたいが、昨今のネット事情を見ると果たして……

2012-05-24

【速報】警視庁での勤務中の飲酒疑惑大量発覚

 民間の会社で勤務中に飲酒をするというのはきわめて不適切なことであるのは言うまでもない。職種によっては懲戒免職も免れないだろう。

 ところが今警視庁内では刑事達による勤務中の飲酒が半ば公然と行われており、しかも何の咎めもないらしい。ある筋からこの情報を得た本誌取材班の調査によれば、多くの刑事達が公然と昼食時にビストロなどで酒を飲み、取り調べが夜にも及べば刑事部屋には大量のサンドウィッチとビールが届き、ときには取調中の容疑者にも振る舞われると言うことである。しかも刑事達のボスであるジュール・メグレ警視にいたっては、公用車での出勤や現場へ向かう途中にもわざわざ酒場に車を止めさせ飲酒をするというのだ。

 飲酒による事故も多い昨今、取り締まる側の警察がこの体たらくでは今後大きな批判を呼びそうだ。

2011-04-03

地震リスクと原発リスク(そして災害と共存する社会)

 Twitterで色々つぶやいてそれに対するリプライをいただいたりして考えたことをだらだらと記す。

 個人的に原発リスクより地震リスクの方が遙かに高くて緊急を要する事だと思っている。原発リスクが大したことじゃないという事じゃなく、福島原発事故が人災と言われるように人が原因である部分がある(技術的に解決できることがある)のと最終的に社会的/政治的決断でリスクをゼロにすることが可能、と言うように少なくともゴールは見えている問題だからというのが大きい。それに比べて地震リスクは日本列島に住んでいる限り逃れられない・リスクをゼロに出来ないと言う点だけ見ても危険性が高く、その対策には緊急を要すると私は考える。

 もちろん地震リスクに対して何も対策が取られていないということじゃない。むしろ日本は世界の中でもっとも地震リスクに対する対策が取られている地域だと思う。耐震基準もそうだし、発生後の防災体制を見てもそうだ。阪神大震災以降全国の主要な活断層には調査が入り、活動間隔や規模などを推定、自治体のサイトではその結果やそれに基づいた被害想定などを公開しているところも多い。

 しかしそれでもまだ全然足らない。東北地方太平洋側はハードとソフト両方の面において世界でもっとも津波対策が取られている地域だったのに、それでも今回のような被害が出た。もちろん地震や津波が措定外の規模だったという理由もあるだろうが、それを言うなら前述の活断層調査だって一定の指針になりはすれど絶対的基準にはならないということも頭に入れて考えなければならない(ここ10年の間にも地震の危険があまり考えられていなかった地域でどれだけ大きな地震が起ったことか)。何百年~何万年間隔で活動する断層にとって数十年、あるいは数百年くらいは誤差の範囲であるし、考慮されていない未発見の要素がある可能性も十分にある。

 想定外の災害に対する対策、と書くとなんだか途方もない無理難題のように見えるが、基本的には想定内の災害に対する対策をその対策の何が重要な部分であるかを把握した上できちんと細部にわたって行うということに過ぎない。例えば今回の地震でも津波対策とは高所への避難であり、地震発生からどれだけ素早く高所へ避難できるのかという時間との戦いであるという要点を押さえたうえでの対策が多くの子供達の命を救った事例もある。

 ハード面での地震対策は全国的に見ても基礎的な部分は大方出来てるところが多いと思う。しかしそれだけでは実際に地震が起った場合足りない部分があるというのが今回の地震で分かったことだ。地震対策の基礎的な部分に如何にして使う人間の立場に立った血肉を付けるのかということが今後の課題になってくるだろう。

 さらに災害教育というのも大事になってくる。災害時には個々の判断で動くしかないし、その判断が他人の命をも左右することになる場合もある。そのためにも災害全般に対する正しい知識という物を日本に住む全ての人が熟知する必要がある。海のないところに住んでいるのに津波の知識なんてと思う人もいるかもしれないだろうが、海沿いの地域に引っ越したり可能性も、海沿いに旅行に行った時に災害に遭う可能性もある。とにかく災害に対する知識や意識というのは子供の頃から教育して身につけさせるべきだと思うし、そのための教育プログラムを組む時期に来てるのではないだろうか。

 どちらにしても実際行うとなるとかなり時間を掛けなければいけないことである。そこがまた私が原発リスクよりも地震リスクの方を重大に見ている要素にもなってたりする。緊急でより重要度がある(と思われている)ことが注目を浴びてその対処にリソースが割り振られるのは当たり前のことだけど、その影で長期的にやらなければいけない事というのは注目されにくいし、忘れられたり無視されたりするケースも多いからね。実際は地震というものはいつどこで起きるか分からないものであり、その対策は時間との戦いであるんだけども(東北地方太平洋沖地震はあと10年発生が遅ければ様々な対策が取られて被害も今よりは少なくなった可能性もある)。まあそんな感じ。

2011-03-30

日本列島で生きるということ

 2011年3月11日14時46分。この時間は1923年9月1日11時58分、1945年8月6日8時15分、1945年8月9日11時2分、1995年1月17日5時46分と並ぶ日本人にとって忘れることの出来ない瞬間になりました。

 東北地方太平洋沖地震。

 このMw9.0という日本における観測史上最大の巨大地震は岩手・宮城・福島の沿岸部に甚大な津波被害をもたらし、北海道から神奈川までの広範囲で死者が出るなど東日本に大きな被害を与え、さらには福島の原発事故をも引き起こしました。様々な産業が大きなダメージを受け、その影響は東日本のみならず西日本にまで及んでいます。リアルタイムで中継される沿岸部を襲う津波の様子を見た日本全国の多くの人たちはその後次第に判明する被害の深刻さと合わせ地震・津波の恐ろしさを痛感したことでしょう。また刻一刻と悪化する原発の状況も人々に大きな不安を与えています。
 この地震は日本という国とそこに住む人々に何年も消えることのない大きな傷を残したと言えると思います。そしてその傷跡は明治維新や太平洋戦争の敗戦と同じように日本の社会システムとその住人の意識に大きな変容を迫ることになるでしょう。

 静岡大学防災総合センター小山真人教授は今回の地震に関して「日本の地殻は、言わばパンドラの箱が開いてしまった状態にあります。これまでの地学的に平和で安定した時代は終わりを告げたと認識し、どうか頭を切り替え、限られた資源とマンパワーを有効に配分してください」と述べています。確かに2004年のスマトラ島沖地震とその後の周辺の地震活動を踏まえてみれば今後今回の震源域周辺での巨大地震の発生確率は上がったと見て良いのかもしれません(一応スマトラ島周辺と日本列島周辺の地殻構造はかなり違いますが)。しかし今回の地震で「地学的に平和で安定した時代」が終りを告げたと言ってしまうのは大きな間違いだと私は思います。ここ10年の地震活動を振り返ってみればM6クラスの中地震やM7クラスの大地震は頻発しておりM8クラスの巨大地震でさえ発生しています。20世紀の地震活動を振り返ってみても多少の時代的ばらつきはあれどいつの時でも日本列島のどこかで大規模な地震が発生し大きな被害を出す可能性があったことが分かると思います。つまり日本列島は地学的に絶えず不安定で大きなリスクを内包している場所なのです。ただそのことを私たち皆が気づかないふりをし、「地学的に平和で安定」していると思い込もうとしていたに過ぎません。
 今回の地震はそのような目を背けてきた地学的なリスクを否応なしに日本社会とそこに住む私たち皆の目の前に突きつけようとしています(もっとも今はまだ地震が起ってから日が浅く、原発事故も現在進行中な状態なので目の前に突きつけられたリスクを直視する余裕はないとは思いますが)。

 そんな中でこちらの動画の影響もあり、ネット上では地震発生後の早い段階から津波リスクについて言及されることが多くなってきています。ただ残念なことに動画の影響が強すぎて三陸にあるここから下に家を建てるなという石碑だけがクローズアップされ、失敗が伝わらなかった、教訓がいかされなかった、ご先祖様の言いつけ通り高所に集落を作っていれば……という話になりがちでもあります。確かに高所移転をした集落が今回の津波でも助かっているという事実はありますし、集落の高所移転が根本的な津波対策の一つであることも事実でしょう。それと同時に高所移転や教訓を忘れるなの一言で済ますことの出来ない問題や目をそらさずに考えなければいけない問題もそこにはあるのです。

 十数戸から数十戸の集落の高所移転は比較的簡単かも知れません。しかし今回の津波被害はそう言った集落だけではなく何百から何千戸という大規模集落や市の中心部が大きな被害を受けました。 山がちで高所と海岸線の距離が近い日本において多くの人間が住める安定した高所というのは限られています。よしんばそういう高所へ大規模移転できたとしても、そいういった場所は断層活動や大規模河川の氾濫などによって形成された土地であり、何らかの自然災害リスクを内包している場合が多いです。場所によっては土砂崩れや地滑りなどの土砂災害や水害などの危険性に常時曝されることになります。さらには限られた土地である以上どうしても人口がその場所に集中してしまうことにもなります。それは今回の津波被害でもそうであったように一度大規模災害が起ると壊滅的な被害が発生する可能性があることを意味します。このように高所移転ということだけでも考えなければならないそれなりのリスクとデメリットと困難さがあるわけです。

 動画にある石碑にも大きな問題があります。あくまでも石碑がある地点はその石碑を建てる切っ掛けとなった津波の到達地点でしかない、という事です。こちらの記事にもあるように一つの体験が絶対視されて安全の基準となるのはとても危険なことです。周期的に起る地震でも必ず決まった大きさの地震が発生するわけではなく、当然津波の大きさも変わってきます。事実今回の津波は過去の津波被害を踏まえて作られた田老町の堤防すら破壊しています。1993年の北海道西南沖地震の際には10年前の日本海中部地震の津波体験から津波到達時間を遅くみた人たちが被害を受けるという事態も発生しています。防災・減災のためには過去の事例に学ぶもそれだけにとらわれないことが重要なのです。

 そしてもう一つ、これが一番重要なことですが、津波被害は東北の太平洋沿岸だけのものではない、ということがあります。
 前述の北海道南西沖地震(1993年)や日本海中部地震(1983年)のように日本海側でも津波は発生し大きな被害を出しています。
 北海道の太平洋側では東北太平洋沖と同じように数十年の間隔でM7~8クラスの大地震が発生し津波を起しています。実際2003年十勝沖地震では津波による死者行方不明者が2名出ています。またこの地域では今回と地震と同じ様な連動型巨大地震による大津波の発生が指摘されています。
 東京における火災旋風の被害が甚大であるためにあまり知られていませんが、関東大震災(1923年)においても伊豆諸島・伊豆半島から相模湾・房総半島にかけて大きな津波が襲い(熱海で最大12m)、多数の犠牲者を出しています。
 東海地方から九州南部の沿岸は昭和東南海地震(1944年)や昭和南海地震(1946年)の例を見れば分かるように東海地震・東南海地震・南海地震による津波被害を幾度となく津受ける地域です。さらには今回の地震と同じ様な巨大地震である東海・南海・東南海連動型地震が発生することも確認されています。
 琉球諸島も地震の多発地帯であり、先島諸島では1771年に最大遡上高80mとも言われる津波が発生した八重山地震が起っています。
 このようにこれまでも日本の各地で津波被害はというのは起っているのです。そしてこれからも起き続けることは確実です。地域によっては今そこにある危機ではないかも知れませんが、いずれ必ずくる危機であることはかわりがありません。津波リスクは決して三陸に住む人たちだけのものではないのです。

 もちろん内陸部に住んでいて津波なんて関係ないと思う方もいるでしょう。しかし津波リスクだけが地学的リスクなのではありません。有史以来M6以上の地震も高頻度で内陸部で起っていますし、兵庫県南部地震(1995年)や福岡県西方沖地震(2005年)のように想定されてなかった地域(ただし過去に周辺地域で大きな地震が起ったことは確認されてはいた)でも地震が発生しています。ここ50年ほどの間の火山噴火の中で死者行方不明者を出した、あるいは周辺住人の大規模避難を起した物だけを上げても十勝岳(1962年)、新潟焼山(1974年)、有珠山(1977年、2000年)、阿蘇山(1979年)、伊豆大島(1986年)、雲仙岳(1990~1995年)、三宅島(2000~2002年)と多く、大きな人的被害はだしていないものの現在噴火活動中の新燃岳や恒常的に活動している桜島などもあります。地震リスクや火山リスクは常に日本列島と共にあると言っていいでしょう。

 残念ながら私たちはこうした地学的リスクから目をそらし続けてきました。日本海の海岸で13人の小学生が津波に攫われ亡くなっても、王滝村が地震による山体崩壊で土石流に襲われても、雲仙岳の麓を大火砕流が襲っても、奥尻で200名あまりの津波犠牲者が出ても、神戸で6000人以上が亡くなっても、当事者である被災者を除いて何処か他人事であったように思います。私もそうでしたが、それが自分達の身に降りかかってくるリスクだとはなかなか思えずにいたことでしょう。しかしそれはもう終りにしないといけません。今私たちがブラウン管やモニターや新聞雑誌を通して見ている光景は私たちが体験した悲劇であり、これから私たちが体験する悲劇なのです。日本列島で生きるということはこの悲劇と向かい合うという事であり、この悲劇をもたらす様々な地学的リスク・自然災害と向かい合い共存していくという事でもあります。私たちは今回の悲劇を通してようやくそのことに気づく事ができるのではないでしょうか。そしてその意識変化は日本社会を地学的リスク・自然災害と共存していくための社会へと変えることになるでしょう。いや、私たちがそう変えなければなりません。

 さて、なぜこんなに長々と色々書いたかというと、切っ掛けは今回の地震のことをあれこれ考えていた時、ふと一つの小説を思い出したからです。

 石黒耀の『死都日本』。

 この小説は九州南部にある加久藤カルデラ(霧島連山を含む現在の加久藤盆地に相当)が現代日本で前回と同じ規模で噴火したらというテーマで書かれたものです。

 九州中部から南部にかけてはこの加久藤カルデラを含むカルデラ火山が複数有ります。これらのカルデラ火山はそれぞれ数万年から数十万年に一度の頻度で巨大噴火(作中で破局的噴火、破局噴火と呼ばれる)を引き起こします(同じ様なカルデラ火山は東北から北海道にかけてもあり、それを含めて平均すると一説には日本列島において破局噴火は一万年に一度程度の頻度で起るとも言われています)。破局噴火は普通の火山と比べて噴出物量も影響範囲も桁違いなものです。秋吉台近くまで到達した火砕流を発生させた9万年前の阿蘇カルデラ、九州南部に所謂シラス台地を形成させる事になる入戸火砕流が発生した2万5千年前の姶良カルデラ(桜島を含む鹿児島湾最奥部にある)、海を越えて九州南部の縄文文化を壊滅させたと言われる巨大火砕流を発生させた7300年前の鬼界カルデラ(大隅海峡にある海底カルデラ)などいくつか例に挙げただけでも破局噴火の桁違いさが分かっていただけると思います(余談ですが、こうした噴火による火山灰は日本列島を広く覆っており、地層年代決定の鍵となっていたりもします)。

 『死都日本』で描かれる加久藤カルデラの噴火もまたこのような桁違いの破局噴火でした。鹿児島県・宮崎県・熊本県の広範囲を襲う大火砕流によって多くの市町村が消滅・壊滅します。日本列島の広範囲に降り積もる火山灰は雨によってラハールを引き起こし、九州の火砕流から逃れられた地域にも九州以外の地域にも大きな被害を与えます(最低でも何十年という期間で)。さらに噴火の影響は日本全土の社会活動や経済活動にまで及び日本という国が世界経済の中で勝ち取ってきた大きな基盤すら失いかねない苦境に立たされることになります。

 と、ここまで書けば今回の地震で私が『死都日本』を思い浮かべた理由が分かっていただけると思います。地震か火山かという違いだけで、基本的に今私たちが置かれている現状と小説に書かれた状況はほとんど変わりがありません。

 『死都日本』では主人公による加久藤カルデラの破局噴火を予見を信じた総理大臣が間に合わないまでも準備を進めていたことで少しでも被害を減らすことに成功し、経済ラハールだなんだと奥の手を繰り出すことで世界経済における日本の地位低下も食い止め、さらには日本を災害と共存していく社会へと変えるというビジョンを打ち出すことで日本社会に新たな希望と目標をもたらすことになります(もっともラストでは破局噴火に誘発されるように東海地震も起るのですが)。

 もちろん現実とフィクションはまるっきり違います。今私たちが置かれている現実には先見の明も奇跡の一手もありません。しかし未来へのビジョン、未来への意思は私たち次第でどうにだってなります。重要なのはここなのです。

 今はまだ原発事故が現在進行中で、そちらの方に気を取られることが多いかも知れません。しかし乱暴なことを言えば、今まで原発事故で亡くなった人よりも自然災害で亡くなった人間の方が多いという事実があるわけで、原発事故のリスクよりも自然災害のリスクの方が遙かに高いのです。もちろんだから原発は安全だということではありません。最終的には原発リスク問題も自然災害リスクを踏まえてどう社会をリデザインしていくかという問題に収斂されていくというだけの話です。逆に言えばもし今回の地震で原発リスクにしか目がいかなかった場合、いずれ日本列島のどこかでまた自然災害により何千人、何万人、何十万人という犠牲者が出るであろうというだけの話なのです。

 だらだらとなんども同じ様なことを書いていい加減あれですが、最後にもう一度書きます。

 日本列島で生きるということは自然と隣り合わせで生きていくということです。それは自然がもたらす恵みも自然が引き起こす災害も引き受けて生きていかねばならないということでもあります。残念ながら今までの日本社会もそこに住む私たちもそのような意識をあまり持つことなく暮らし社会を発展させてきました。しかし多くの日本に住む人たちが東北地方太平洋沖地震を共有したであろう今こそ私たちは災害を他人事とせず、災害と共存していく強い意識を持ち、そのための社会へと日本社会を作り替えていくべきではないでしょうか。

 最後にとりとめもないこの文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。

2010-02-27

はじめまして

ようやく光が開通して設定が終了。これからは基本的にこっちを使っていく予定。

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